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本来の姿を取り戻す

「みんなの心に輝く学校をめざして」取り組んだ学校経営、「生き生きとした学校生活のために」取り組んだ生徒指導で感じた課題の解消を念頭に置いて教育問題などを考えます。

◇感動の式で送り出したいはずだが

 2月も後半になれば学校は卒業式の練習を始めているだろう。国歌や校歌、式歌、卒業証書のもらい方など、予行練習を通して立派な式になるよう生徒と教職員が力を合わせて取り組むのがコロナ前の姿だった。もう3年も満足な式ができずにいるが、今年も難しそうだ。

 文科省は各学校の実情に応じて卒業式が適切に行われるようマスクの取扱いに関する基本的方針を各都道府県の教育委員会などに通知した(2月10日)とのことだ。通知では児童生徒と教職員は、入退場、式辞、卒業証書授与、送辞・答辞の場面など、式全体を通じてマスクなしを基本とするが、来賓や保護者等はマスクを着用するとともに、座席間に触れ合わない程度の距離を確保したうえで、参加人数の制限を不要とした。

 児童生徒や教職員は式全体を通じてマスクなしを基本としているにもかかわらず、国歌や校歌などの斉唱及び複数の児童生徒による「呼びかけ」の際はマスクを着用するなど、一定の感染症対策を講じるよう求めている。マスクを着けたり外したりすれば気持ちが途切れるかもしれない。

 剣道では、飛沫感染防止のためにマウスガードの装着や面マスクの着用が義務づけられている。面マスクはナイロンやポリウレタン製などで呼吸がしやすく鼻マスクにもなりにくい物を使用している。不織布マスクで稽古している人を見たことがないが、国歌や校歌などをマスク着用で斉唱するのであればマスクの検討も必要かもしれない。

 マスクの着脱については、感染不安からマスクの着用を希望する児童生徒や健康上の理由により着用できない児童生徒もいることから強制はしない。また、マスクの着用有無による差別や偏見が生じないよう適切な指導を依頼したとのことである。こういう通知に困惑する学校もあるかもしれない。厳粛かつ感動的な式で卒業生を送り出したいとの思いは叶えられるのだろうか。  (2023.2.18)

◇過ぎたるは足らざるに如かず

 剣道人口に占める若者の割合は減少して稽古風景が高齢者の稽古会かと見まがうほどの時もある。コロナ禍の中、地元での稽古には顔を出しても遠くまで出かけることは少ないようで以前のような賑わいを取り戻すのはいつのことやらと思う。

 コロナもあり、また患って入院していたこともあり稽古ができなくなると体力は相当に落ち込む。早く元の状態に戻そうと無理をすると、アキレス腱や膝などが痛み出しスポーツクリニックのお世話にもなった。

 「及ばざるは過ぎたるよりまされり徳川家康遺訓)」との教えに気をとめることはなかったが、足らない方がやり過ぎよりいいと感じることが多くなった。

 若い頃はバリバリで試合にも稽古にも活躍していたのに、今では故障続きで思うように稽古ができない人がいる。剣道が好きだから長く続き高齢になればなるほど楽しんでいる。「これを好む者これを楽しむ者に如かず」と孔子が言っているように剣道を楽しみたいものである。若くても適度に休養を取り無理をしてはならないとつくづく思う。 (2023.1.21)

◇長く続いていても正しくはない

 新年になれば私立高校の一般入試、2月に入れば特色選抜入試、3月には県立高入試がある。入試事務など進路に関してはミスが許されないとの思いがあり、進路指導主事や3学年担当職員は相当な緊張感をもって日々を過ごすことになる。入試関係の仕事がなければ3年生の担任を毎年やってもいいと話す担任が何人かいたが、正直な気持ちだろう。

 現職中、入学願書を生徒から預かり中学校が取りまとめて高校に提出することに疑問を感じていたが、高校がそれを望み職員から何の声も上がっていなかったこと、そして、毎年のことだったので何の行動もせずそのままにしてしまった。今はそのことを心残りに思っている。多忙な学校現場を改善しない限り採用試験受験者減の流れは止められない。

 入学を希望する学校に願書を提出するのは生徒本人であるべきで、それが正しいことだろう。どんな困難があろうとも物事は正しくやるべきである。随分前の話だが、子どもが希望の高校を受けさせてもらえなかったと話した保護者がいたと聞いたことがあるが、生徒本人が願書を提出する状況になっていればそんなことが起こるはずもなく批判されることもないだろう。

 栃木の県立高等学校入学者選抜要項には、「出願に要する書類は、在学又は出身の中学校、義務教育学校中等教育学校又はこれらに準ずる学校の校長を経由して志願先の高等学校の校長に提出するものとする。ただし、中学校、義務教育学校若しくはこれらに準ずる学校を卒業し、又は中等教育学校の前期課程を修了した後5年以上を経過した志願者は、志願者本人が直接志願先の高等学校長に提出するものとする。」と書かれている。卒業後5年以上経過した者は志願先の高等学校長に直接提出することができるなら5年未満の志願者だってできるはずである。

 埼玉県の入学者選抜実施要項には、出願書類の提出方法として、「原則、中学校がまとめて郵送による出願とする。ただし、中学校がまとめて持参、志願者が郵送・持参によって提出することもできる。」と記されている。やろうと思えばできないことではない。長年続いていたことではあるが改めなければならないだろう。  (2022.12.30)

◇己に如かざる者を友とすること無かれ!?

 足利市内の学校では論語素読が行われて久しいが、今はコロナの関係で大きな声も出せず以前のようにはできないかもしれない。論語は約500章あるが、児童生徒に学ばせたいと鳩首協議して100章が選定されている。

 論語は示唆に富む内容がほとんどだが、現代に妥当しないと感じるものもある。「己に如(し)かざる者を友とすること無かれ(学而篇八)」、この教訓が世の中に徹底したら同程度の人間でないと友人にはなれない。己に如かざる者とは、好学、才能、身分、貧富、その他どんな点で如かざる者なのかよく分からないが、どれか一つでも如かざる者を友にするなということであれば友人はできない。

 孟子は弟子の万章に友との交わりを問われ、決して富貴や身分、権勢を鼻にかけたり得意になったりするところがあってはならない。友なる者はその徳を友とすると答えた。

 孟子は子思孔子の孫)に学んだとか、その門人に学んだと言われている。孔子を敬慕し本意を十分に理解していたに違いない。徳がなく尊敬できない人間とは友人関係を結ばないというのが孔子の本意なのだろう。  (2022.11.30)

◇戦争は絶対悪ではない

 2月24日の侵攻から間もなく9カ月になるが、ウクライナの悲惨な現状を知れば知るほどプーチンとその一味は絶対に許せないという気持ちになる。ロシアに屈しないとのウクライナの覚悟は帝政ロシアソ連の支配で辛酸をなめたからだろう。

 農作物の強制徴収で発生した飢餓で数百万人が命を落としたホロドモール、国内パスポート制による農民の移動制限、強制労働、共産党の監視と過酷な懲罰、ジェノサイド、収容所への強制収容など、悲惨な歴史はどんな犠牲を払ってでも戦うとの気持ちになるのも当然だろう。

 鈴木宗男日本維新の会は、自身のブログ「ムネオ日記」で8000㎢領土奪還のウクライナに「自前で戦えないなら平和的解決を模索すべき(9月15日)」と書いた。ガルージン駐日ロシア大使が講演した勉強会(10月5日)では「戦争には双方言い分がある」と発言したことを書いていたが、ウクライナ国民を深く傷つけロシアの戦争犯罪を不問にするとんでもない主張である。

 橋下徹(コメンテーター、弁護士)は、情報番組に出演中、「今、ウクライナは18歳から60歳まで男性を国外退避させないっていうのは、これは違う」、「ウクライナ人は国外へ逃げろ」などと発言(3月3日)した。みんな国外に逃げたらウクライナはなんの造作もなくロシアのものになり、その後故郷に戻れる保証はない。無責任も甚だしい。この番組を見ていたウクライナ人は泣きたい気持ちだったろう。

 日本はソ連ではなくアメリカの占領統治で幸いだった。ソ連だったらどんなことになっていただろう。ウクライナが降伏することになったら徹底したロシア化が行われるに違いない。公用語はロシア語、ウクライナ語は禁止、ウクライナ通貨を廃止してルーブルに、ロシアに不都合な真実の歴史は改ざん、ウクライナ文化の破壊、反ロシア的言動は逮捕拘禁、粛清されるかもしれない。ウクライナは生きるために人間らしく生きるために戦っている。今まで平和に生きてこられた日本も今後はそうもいかないだろう。平和ボケは何とかしたいものだ。

 第7回世界価値観調査(各国毎に18歳以上の男女1000~2000サンプル程度の意識調査、2017~2020実施)の各国の回答結果がグラフ表示されている。「もし戦争が起こったら国のために戦うか」の問に対する日本の結果にはがっかりする。主な国の結果は以下の通りである。

      「はい」  「いいえ」 「わからない」 「無回答」

米国   59.6%  38.6%   0.0%   1.7%
英国   64.5〃  31.9〃   3.3〃   0.2〃
フランス 65.6〃  28.1〃   5.6〃   0.7〃

ロシア  68.2〃  22.0〃   9.1〃   0.7〃
中国   88.5〃  10.2〃   0.0〃   1.3〃
韓国   67.4〃  32.6〃   0.0〃   0.0〃
台湾   76.9〃  23.1〃   0.0〃   0.0〃

ドイツ  44.8〃  40.6〃  12.2〃   2.4〃
イタリア 37.4〃  45.0〃  13.9〃   3.8〃
日本   13.2〃  48.6〃  38.1〃   0.2〃

 日本語での設問文の全文は、「もう二度と戦争はあって欲しくないというのがわれわれすべての願いですが、もし仮にそういう事態になったら、あなたは進んでわが国のために戦いますか」であり、各国の調査票も同様である。

 「はい」の比率が日本は世界79カ国の最低となっている。「いいえ」の比率は6位(1位はマカオの59.0%)である。国のために戦うかどうかの意識には、第二次大戦が大きく影響しているようで、ドイツとイタリアも日本ほどではないが比率は低い。日本が極端に低くなっているのは、精神が軟弱、愛国心の欠如ということがあるかもしれないが、憲法9条を考慮した結果なのかもしれない。「わからない」が38.1%(79カ国中1位)になっているのはそういうことでもあろう。

 軍民合せて310万人がなくなり、戦争はこりごりという感情は当然のことと思うが、戦争は絶対悪と考えているのであれば改めるべきだ。他国侵略戦争は絶対悪だが、祖国防衛戦争は悪ではなく善である。ロシアのウクライナ侵略を見れば明らかである。  (2022.11.13)

◇良識を示してくれた

 野田佳彦元総理の追悼演説(10月25日、衆院本会議)は、与野党を超えて称賛の声が相次ぎ、遺影を手に傍聴した昭恵夫人は原稿を仏壇に供えたいと感謝の念を伝えたということだが、非常に感動的な内容だった。

 以前のブログに書いたが、左翼やメディアなどの国葬反対の言動は、死者に鞭打ち遺族を傷つけるもので、それでも人間かと言いたくなるほどだったが、この演説には心満たされ晴れ晴れとした気分になった人も多いだろう。

 菅前総理が友人代表として述べた弔辞も拍手が起こるような感動の内容だった。二人の総理が表した哀悼の誠は日本人の良識を示す本来の姿である。受け継いでいきたいものだ。  (2022.10.29)


  野田元総理立憲民主党の追悼演説衆院本会議にて)

  本院議員、安倍晋三内閣総理大臣は、去る7月8日、参院選挙候補者の応援に訪れた奈良県内で、演説中に背後から銃撃されました。搬送先の病院で全力の救命措置が施され、日本中の回復を願う痛切な祈りもむなしく、あなたは不帰の客となられました。享年67歳。あまりにも突然の悲劇でした。

  政治家としてやり残した仕事。次の世代へと伝えたかった思い。そして、いつか引退後に昭恵夫人とともに過ごすはずであった穏やかな日々。すべては、一瞬にして奪われました。

  政治家の握るマイクは、単なる言葉を通す道具ではありません。人々の暮らしや命がかかっています。マイクを握り日本の未来について前を向いて訴えているときに、後ろから襲われる無念さはいかばかりであったか。改めて、この暴挙に対して激しい憤りを禁じ得ません。

  私は、生前のあなたと、政治的な立場を同じくするものではありませんでした。しかしながら、私は、前任者として、あなたに内閣総理大臣のバトンを渡した当人であります。

  わが国の憲政史には、101代64名の内閣総理大臣が名を連ねます。先人たちが味わってきた「重圧」と「孤独」をわが身に体したことのある一人として、あなたの非業の死を悼み、哀悼の誠をささげたい。

  そうした一念のもとに、ここに、皆さまのご賛同を得て、議員一同を代表し、謹んで追悼の言葉を申し述べます。

  安倍晋三さん。あなたは、昭和29年9月、後に外務大臣などを歴任された安倍晋太郎氏、洋子さまご夫妻の次男として、東京都に生まれました。

  父方の祖父は衆議院議員、母方の祖父と大叔父は後の内閣総理大臣という政治家一族です。「幼い頃から身近に政治がある」という環境の下、公のために身を尽くす覚悟と気概を学んでこられたに違いありません。

  成蹊大学法学部政治学科を卒業され、いったんは神戸製鋼所に勤務したあと、外務大臣に就任していた父君の秘書官を務めながら、政治への志を確かなものとされていきました。

  そして、父、晋太郎氏の急逝後、平成5年、当時の山口1区から衆議院選挙に出馬し、見事に初陣を飾られました。38歳の青年政治家の誕生であります。

  私も、同期当選です。初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、あなたの周りを取り囲む、ひときわ大きな人垣ができていたのを鮮明に覚えています。

  そこには、フラッシュの閃光(せんこう)を浴びながら、インタビューに答えるあなたの姿がありました。私には、その輝きがただ、まぶしく見えるばかりでした。

  その後のあなたが政治家としての階段をまたたく間に駆け上がっていったのは、周知のごとくであります。

  内閣官房副長官として北朝鮮による拉致問題の解決に向けて力を尽くされ、自由民主党幹事長、内閣官房長官といった要職を若くして歴任したのち、あなたは平成18年9月、第90代の内閣総理大臣に就任されました。戦後生まれで初。齢52、最年少でした。

 大きな期待を受けて船出した第1次安倍政権でしたが、翌年9月、あなたは、激務が続く中で持病を悪化させ、1年あまりで退陣を余儀なくされました。順風満帆の政治家人生を歩んでいたあなたにとっては、初めての大きな挫折でした。「もう二度と政治的に立ち上がれないのではないか」と思い詰めた日々が続いたことでしょう。

 しかし、あなたは、そこで心折れ、諦めてしまうことはありませんでした。最愛の昭恵夫人に支えられて体調の回復に努め、思いを寄せる雨天の友たちや地元の皆さまの温かいご支援にも助けられながら、反省点を日々ノートに書きとめ、捲土(けんど)重来を期します。

 挫折から学ぶ力とどん底からはい上がっていく執念で、あなたは、人間として、政治家として、より大きく成長を遂げていくのであります。

 かつて「再チャレンジ」という言葉で、たとえ失敗しても何度でもやり直せる社会を提唱したあなたは、その言葉を自ら実践してみせました。ここに、あなたの政治家としての真骨頂があったのではないでしょうか。

 あなたは、「諦めない」「失敗を恐れない」ということを説得力もって語れる政治家でした。若い人たちに伝えたいことがいっぱいあったはずです。その機会が奪われたことは誠に残念でなりません。

 5年の雌伏を経て平成24年、再び自民党総裁に選ばれたあなたは、当時、内閣総理大臣の職にあった私と、以降、国会で対峙(たいじ)することとなります。最も鮮烈な印象を残すのは、平成24年11月14日の党首討論でした。

 私は、議員定数と議員歳費の削減を条件に、衆議院の解散期日を明言しました。あなたの少し驚いたような表情。その後の丁々発止。それら一瞬一瞬を決して忘れることができません。それらは、与党と野党第一党の党首同士が、互いの持てるすべてを賭けた、火花散らす真剣勝負であったからです。

 安倍さん。あなたは、いつの時も、手ごわい論敵でした。いや、私にとっては、仇(かたき)のような政敵でした。

 攻守を代えて、第96代内閣総理大臣に返り咲いたあなたとの主戦場は、本会議場や予算委員会の第一委員室でした。

 少しでも隙を見せれば、容赦なく切りつけられる。張り詰めた緊張感。激しくぶつかり合う言葉と言葉。それは、一対一の「果たし合い」の場でした。激論を交わした場面の数々が、ただ懐かしく思い起こされます。

 残念ながら、再戦を挑むべき相手は、もうこの議場には現れません。

 安倍さん。あなたは議場では「闘う政治家」でしたが、国会を離れ、ひとたび兜を脱ぐと、心優しい気遣いの人でもありました。

 それは、忘れもしない、平成24年12月26日のことです。解散総選挙に敗れ敗軍の将となった私は、皇居で、あなたの親任式に、前総理として立ち会いました。

 同じ党内での引き継ぎであれば談笑が絶えないであろう控え室は、勝者と敗者の2人だけが同室となれば、シーンと静まりかえって、気まずい沈黙だけが支配します。その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、安倍さんの方でした。

 あなたは私のすぐ隣に歩み寄り、「お疲れさまでした」と明るい声で話しかけてこられたのです。

 「野田さんは安定感がありましたよ」

 「あの『ねじれ国会』でよく頑張り抜きましたね」

 「自分は5年で返り咲きました。あなたにも、いずれそういう日がやってきますよ」

 温かい言葉を次々と口にしながら、総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、励まそうとしてくれるのです。

 その場は、あたかも、傷ついた人を癒やすカウンセリングルームのようでした。

 残念ながら、その時の私には、あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした。でも、今なら分かる気がします。安倍さんのあの時の優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを。

 第1次政権の終わりに、失意の中であなたは、入院先の慶応病院から、傷ついた心と体にまさにむち打って、福田康夫新総理の親任式に駆けつけました。

 わずか1年で辞任を余儀なくされたことは、誇り高い政治家にとって耐え難い屈辱であったはずです。あなたもまた、絶望に沈む心で、控室での苦しい待ち時間を過ごした経験があったのですね。

 あなたの再チャレンジの力強さとそれを包む優しさは、思うに任せぬ人生の悲哀を味わい、どん底の惨めさを知り尽くせばこそであったのだと思うのです。

 安倍さん。あなたには、謝らなければならないことがあります。

 それは、平成24年暮れの選挙戦、私が大阪の寝屋川で遊説をしていた際の出来事です。

 「総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でおなかが痛くなってはダメだ」

 私は、あろうことか、高揚した気持ちの勢いに任せるがまま、聴衆の前で、そんな言葉を口走ってしまいました。他人の身体的な特徴や病を抱えている苦しさを揶揄(やゆ)することは許されません。語るも恥ずかしい、大失言です。

 謝罪の機会を持てぬまま、時が過ぎていったのは、永遠の後悔です。いま改めて、天上のあなたに、深く、深くおわびを申し上げます。

 私からバトンを引き継いだあなたは、7年8カ月あまり、内閣総理大臣の職責を果たし続けました。

 あなたの仕事がどれだけの激務であったか。私には、よく分かります。分刻みのスケジュール。海外出張の高速移動と時差で疲労は蓄積。その毎日は、政治責任を伴う果てなき決断の連続です。容赦ない批判の言葉の刃も投げつけられます。在任中、真の意味で心休まるときなどなかったはずです。

 第1次政権から数え、通算在職日数3188日。延べ196の国や地域を訪れ、こなした首脳会談は1187回。最高責任者としての重圧と孤独に耐えながら、日本一のハードワークを誰よりも長く続けたあなたに、ただただ心からの敬意を表します。

 首脳外交の主役として特筆すべきは、あなたが全くタイプの異なる2人の米国大統領と親密な関係を取り結んだことです。理知的なバラク・オバマ大統領を巧みに説得して広島にいざない、被爆者との対話を実現に導く。かたや、強烈な個性を放つドナルド・トランプ大統領の懐に飛び込んで、ファーストネームで呼び合う関係を築いてしまう。

 あなたに日米同盟こそ日本外交の基軸であるという確信がなければ、こうした信頼関係は生まれなかったでしょう。ただ、それだけではなかった。あなたには、人と人との距離感を縮める天性の才があったことは間違いありません。

 安倍さん。あなたが後任の内閣総理大臣となってから、一度だけ、総理公邸の一室で、ひそかにお会いしたことがありましたね。平成29年1月20日、通常国会が召集され政府四演説が行われた夜でした。

 前年に、天皇陛下の象徴としてのお務めについて「おことば」が発せられ、あなたは野党との距離感を推し量ろうとされていたのでしょう。

 二人きりで、陛下の生前退位に向けた環境整備について、1時間あまり、語らいました。お互いの立場は大きく異なりましたが、腹を割ったざっくばらんな議論は次第に真剣な熱を帯びました。

 そして、「政争の具にしてはならない。国論を二分することのないよう、立法府の総意を作るべきだ」という点で意見が一致したのです。国論が大きく分かれる重要課題は、政府だけで決めきるのではなく、国会で各党が関与した形で協議を進める。それは、皇室典範特例法へと大きく流れが変わる潮目でした。

 私が目の前で対峙(たいじ)した安倍晋三という政治家は、確固たる主義主張を持ちながらも、合意して前に進めていくためであれば、大きな構えで物事を捉え、飲み込むべきことは飲み込む。冷静沈着なリアリストとして、柔軟な一面を併せ持っておられました。

 あなたとなら、国を背負った経験を持つ者同士、天下国家のありようを腹蔵なく論じあっていけるのではないか。立場の違いを乗り越え、どこかに一致点を見いだせるのではないか。

 以来、私は、そうした期待をずっと胸に秘めてきました。

 憲政の神様、尾崎咢堂は、当選同期で長年の盟友であった犬養木堂五・一五事件の凶弾で喪いました。失意の中で、自らを鼓舞するかのような天啓を受け、かの名言を残しました。

 「人生の本舞台は常に将来に向けて在り」

 安倍さん。あなたの政治人生の本舞台は、まだまだ、これから先の将来に在ったはずではなかったのですか。

 再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった。

 勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん。

 耐え難き寂寞の念だけが胸を締め付けます。

 この寂しさは、決して私だけのものではないはずです。どんなに政治的な立場や考えが違っていても、この時代を生きた日本人の心の中に、あなたの在りし日の存在感は、いま大きな空隙となって、とどまり続けています。

 その上で、申し上げたい。

 長く国家のかじ取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならない運命(さだめ)です。

 安倍晋三とはいったい、何者であったのか。あなたがこの国に遺したものは何だったのか。そうした「問い」だけが、いまだ中ぶらりんの状態のまま、日本中をこだましています。

 その「答え」は、長い時間をかけて、遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません。

 そうであったとしても、私はあなたのことを、問い続けたい。

 国の宰相としてあなたが遺した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちとともに、言葉の限りを尽くして、問い続けたい。

 問い続けなければならないのです。

 なぜなら、あなたの命を理不尽に奪った暴力の狂気に打ち勝つ力は、言葉にのみ宿るからです。

 暴力やテロに、民主主義が屈することは、絶対にあってはなりません。

 あなたの無念に思いを致せばこそ、私たちは、言論の力を頼りに、不完全かもしれない民主主義を、少しでも、よりよきものへと鍛え続けていくしかないのです。

 最後に、議員各位に訴えます。

 政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命がかかっています。

 暴力に怯まず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。

 民主主義の基である、自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。

 真摯(しんし)な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱(きょうじん)なものへと育てあげていこうではありませんか。

 こうした誓いこそが、マイクを握りながら、不意の凶弾に斃(たお)れた故人へ、私たち国会議員がささげられる、何よりの追悼の誠である。私はそう信じます。

 この国のために、「重圧」と「孤独」を長く背負い、人生の本舞台へ続く道の途上で天に召された、安倍晋三内閣総理大臣

 闘い続けた心優しき一人の政治家の御霊に、この決意を届け、私の追悼の言葉に代えさせていただきます。

 安倍さん、どうか安らかにお眠りください。


  菅前総理の追悼の辞(友人代表として、安倍元総理国葬

 7月の、8日でした。

 信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。

 その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。

 あの、運命の日から、80日が経ってしまいました。

 あれからも、朝は来て、日は、暮れていきます。やかましかったセミは、いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には、秋の雲がたなびくようになりました。

 季節は、歩みを進めます。あなたという人がいないのに、時は過ぎる。無情にも過ぎていくことに、私は、いまだに、許せないものを覚えます。

 天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか。

 口惜しくてなりません。哀しみと、怒りを、交互に感じながら、今日の、この日を、迎えました。

 しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。

 ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。

 20代、30代の人たちが、少なくないようです。明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。

 総理、あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。

 そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。これが、あなたの口癖でした。

 次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。

 いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。報われた思いであります。

 平成12年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。

 私は、当選まだ2回の議員でしたが、「草の根の国民に届くならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。

 すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と、電話をかけてくれました。

 「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。

 信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。

 その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感いたしました。この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。

 私が、生涯誇りとするのは、この確信において、一度として、揺らがなかったことであります。

 総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。そのことを負い目に思って、2度目の自民党総裁選出馬を、ずいぶんと迷っておられました。

 最後には、2人で、銀座の焼鳥屋に行き、私は、一生懸命、あなたを口説きました。それが、使命だと思ったからです。

 3時間後には、ようやく、首をタテに振ってくれた。私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思うであろうと思います。

 総理が官邸にいるときは、欠かさず、1日に1度、気兼ねのない話をしました。いまでも、ふと、ひとりになると、そうした日々の様子が、まざまざと、よみがえってまいります。

 TPP交渉に入るのを、私は、できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は、「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。

 一歩後退すると、勢いを失う。前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。

 安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立をさせることができました。

 どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちは、とこしえの感謝をささげるものであります。

 国難を突破し、強い日本を創る。そして、真の平和国家 日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。

 そんな、覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。

 総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8か月。私は本当に幸せでした。

 私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは、我が国日本にとっての、真のリーダーでした。

 衆議院第1議員会館、1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が1冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。

 ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。

 しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。

 総理、いま、この歌ぐらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。

 かたりあひて 尽しヽ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

 かたりあひて 尽しヽ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

 深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当に、ありがとうございました。

 どうか安らかに、お休みください。

令和4年9月27日 前内閣総理大臣菅義偉

◇人間らしく生きられなければ…

 「百万本のバラ」などのヒット曲で知られるロシアの国民的女性歌手「アーラ・プガチョワ(73)」が、ウクライナ侵攻を続けるプーチン政権を批判したとの記事を読んだが、正義を貫くことが非常に困難な状況の中で示した勇気ある行動に敬服する。

 加藤登紀子の「百万本のバラ」はその日本語版になるが、アーラ・プガチョワの曲もオリジナルではなく、ラトビアの『Dāvāja Māriņa』(ダーヴァーヤ・マーリニャ)を原曲とする。

 ロシア語で聞いても日本語で聞いても、悲恋の歌であり哀愁を帯びたメロディ、そして、原曲の歌詞に秘められた意味を知ると、涙が湧いてくるのも自然なことかもしれない。

 ラトビアには大国に翻弄され続けてきた悲劇の歴史がある。『Dāvāja Māriņa』という曲名は、「マーラが与えた人生」という意味らしく、日本ではその曲名で知られているようだ。作詞はラトビアの愛国詩人によるもので、ラトビアという国を娘に例えて、女神マーラは娘に命を与えたけれど幸せをあげ忘れたと表現した。

 1981年、ラトビアの放送局の歌謡コンテストで原曲をアイヤ・ククレと9歳の女の子の二人が歌って優勝した。翌年、この曲にロシアの詩人がグルジアの画家のロマンスを元に詩をつけアーラ・プガチョワが歌った。

 ロシアのウクライナ侵略を目の当たりにし、ラトビアの悲劇は日本でも起こり得ることと思う。万全の対応策を用意しておかなければならないだろう。  (2022.10.2)


 『マーラが与えた人生』(アイヤ・ククレ)

一 子供の頃 子供の頃 私が傷つくと
  急いで 急いで 母を探した
  つかんだ つかんだ 手で 彼女のエプロンを
  母は私に 母は私に 微笑みながら言った
  与えた 与えた 与えた マリーナは
  娘に 娘に 娘に 命を
  忘れた 忘れた 忘れた 与えるのを
  娘に 娘に 娘に 幸せを

二 時は過ぎたので 時は過ぎたので 今では 長く母はなく
  ただ自分に 自分に すべてを受け入れるために
  でも 当時のままに 当時のままに 私は心がひどく痛む時
  自分に 自分に 笑いながらこう言う
  与えた 与えた 与えた マリーナは
  娘に 娘に 娘に 命を
  忘れた 忘れた 忘れた 与えるのを
  娘に 娘に 娘に 幸せを

三 忘れた 忘れた あらゆることを 日々の労苦の中に
  突然 突然 びっくりして飛び上がった
  なぜなら 聞いたから 聞いたから 心の中にしまっていることを
  静かに 静かに ささやいた 娘はこのように笑いながら
  与えた 与えた 与えた マリーナは
  娘に 娘に 娘に 命を
  忘れた 忘れた 忘れた 与えるのを
  娘に 娘に 娘に 幸せを

   『与えた 与えた 与えた マリーナは
  娘に 娘に 娘に 命を
  忘れた 忘れた 忘れた 与えるのを
  娘に 娘に 娘に 幸せを』
            ↓
   繰り返す


 『百万本のバラ』(アーラ・プガチョワ)

一 ひとりの絵描きがおりました
  財産といえば小さな家とカンバスだけ
  そんな絵描きが女優に恋をした
  女優は花が大好きでした
  絵描きは小さな家と
  彼の絵とカンバスを売り払い
  そのお金全部で買ったのは
  あふれる海ほどの花でした
  百万本の真っ赤なバラを 窓から窓からあなたが見てる
  心から心から愛するあなたへ すべてを花に変えて捧げましょう

二 朝あの人は窓辺へ来て
  きっとびっくりするでしょうか
  まだ夢を見ているのではないかしらと
  広場を埋め尽くすバラの花に
  いいえ、ふと我に返り
  どこのお金持ちの酔狂だろうと
  窓の下にはそっとはにかむように
  貧しい絵描きが立っておりました
  百万本の真っ赤なバラを 窓から窓からあなたが見てる
  心から心から愛するあなたへ すべてを花に変えて捧げましょう

三 出会いはかように短く
  晩には女優を乗せた列車が去ってゆきました
  だけど彼女の人生には
  咲き誇るバラの歌がずっと響いておりました
  すべてを使い果たした絵描きはひとり
  貧しさの日々を送りました
  けれど彼の心にはいつまでも
  広場一杯の花の思い出が残りました
  百万本の真っ赤なバラを 窓から窓からあなたが見てる
  心から心から愛するあなたへ すべてを花に変えて捧げましょう

   『百万本の真っ赤なバラを 窓から窓からあなたが見てる
  心から心から愛するあなたへ すべてを花に変えて捧げましょう』
            ↓
   繰り返す