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本来の姿を取り戻す

「みんなの心に輝く学校をめざして」取り組んだ学校経営、「生き生きとした学校生活のために」取り組んだ生徒指導で感じた課題の解消を念頭に置いて教育問題などを考えます。

◇校長の率先垂範は大事なことだが

 某中学校の校長(故人)は、非常に優秀な教師として尊敬されていた方だったが、校長としてそれまでの評判を台無しにするほどの大失態を演じてしまった。

 赴任後早々に問題生徒の家庭を率先して訪問をしていることを称える方もいたが、担任や学年主任がやるべきことを校長にされたのでは担当者の立つ瀬もなくなる。校長の生徒指導は大失敗に終わった。

 過去のブログ「給食の未納問題は難しい」で、給食費の徴収のために校長が家庭訪問をして回ったが徴収は思うようにできなかった。学年主任や担任がその後いくら督促しても徴収は難しく、その小学校の未納額は膨大な額になってしまったが、中学校では未納はなかったのである。

 校長の率先垂範は大事なことだが、後ろに控え失敗があっても責任は校長にあるとの覚悟をもって職務に当たり、教職員が信念をもって仕事に取り組めるような学校にすることの方がはるかに大事である。 (2019.5.21)

◇こんな報道には傷つく人もいるだろう

 東京杉並区のアパートで保育士さんが殺害された事件(平成30年3月26日)を、28日のTBS「Nスタ」は「照井さんはなぜ殺されなければならなかったのか」とのナレーションを入れて概要を報じた。

 犯人はまだ逮捕されていない時点での報道であり、なぜ殺されたかなど全く分からないはずなので、「なぜ殺されなければならなかったのか」はあまりにも不適切である。被害者に殺される理由があるなどとは微塵も考えてなかったとしても、被害者には何らかの落ち度があったとの予断をもたせることにもなりかねない。

 報じ方によっては遺族や関係者を傷つけてしまうことになる。殺されなければならない人なんて死刑囚以外にはない。

 滋賀県大津市で車2台が衝突し、1台が弾みで信号待ちをしていた保育園児(13人)と保育士(3人)の列に突っ込み、保育園児2人が亡くなる事故(令和元年5月8日)が発生した。

 Nスタは「この事故はなぜ起きたのか」ではなく、「園児たちはなぜこのような事故に遭わなくてはならなかったのか」とのナレーションを入れて事故を報じた。

 ナレーターは園児たちに何の落ち度もなかったことを強調したかったのかもしれないが、2人の命が失われ、1人の園児は意識不明の重体、13人の園児保育士が重軽傷を負った事故は遭わなくてはならなかったことではない。違和感を感じた人もいただろう。

 この度の事故で犠牲になった保護者や家族の気持ちを思うとかける言葉すら見当たらない。あまりの痛ましさに涙するばかりだろう。悲しんでいる人たちの気持ちを考えて報道すべきである。  (2019.5.10)

◇ブラックでは悲し過ぎる

 部活動指導や生徒指導、保護者への対応、校務分掌などのために大幅な超過勤務を強いられ、身も心も磨り減らす教員の実態が明らかにされている。聖職と言われた教職も今ではブラックと言われるようになってしまった。

 教育現場の多忙感は初任の頃から感じてはいたが、先輩の「我々教師には前にも後ろにも子どもがいる」ことを忘れてはならないとの言葉に、これは仕方がないことと長年受け入れてきた。

 しかし、このままにできないとの思いも高まり、自分のできることで教職員の負担軽減を図っていくようにしたのは、今から30年ほど前の生徒指導主事になってからである。教職員の精神疾患による休職者数が全国で5千名を越えたと報じられた頃には、現状を深刻に受け止めていた。

 生徒指導主事でも教務主任でも負担軽減はできるが、管理職でなければ思い切った対策が取れない。管理職が決意をもって取り組めばかなりの改善ができる。4月から5月にほとんどの学校が実施している家庭訪問があるが、それを止めることにした学校がある。管理職の勇断は称賛に値する。

 教育は国家百年の大計とも言われるが、過労死レベルとまで報じられた状態を放置したら、教員志望者が激減するだけでなく、国民の負託にこたえることもできなくなるだろう。  (2019.4.15)

◇令和の御代を迎える清々しい気分は日本人ならではのものかも

 菅官房長官によって発表(平成30年4月1日)された新元号は瞬く間に国民の知るところとなり、そして、万葉集からの出典などが明らかにされると、多くの国民に好感をもって受け入れられる状況になった。

 新元号に対する人々の反応が映像で報じられるが、新天皇の即位と令和の御代に気持ちを高ぶらせる様子が伝わってくる。あの高揚感は日本人ならではのものと感じる。

「違和感がある。令の字の意味について国民に納得してもらえるよう説明する努力をしなければならない」と語った国会議員(石破元幹事長)がいたが、令を命令の令として対話を否定するような印象をもっているのだろう。

 令嬢とか令息、令夫人、そして、万葉集から引用された令月との官房長官の説明などもあり、令の字を使ったことに納得できない人などほとんどいないだろう。命令の令なら、令和は「和を令す」ということにもなり対話を否定するものではない。

 とても素晴らしい元号で美しいと感じているが、新天皇の御代が人々の心に輝く時代となるよう僅かでも貢献できたら幸せである。  (2019.4.4)

◇平和学習って必要なのか

 栃木県の中学校の主な修学旅行地は、奈良・京都で2泊3日の行程だろう。教職最後となった学校では大阪・京都になっていて、大阪と京都に宿を取っていたので大阪からの移動(班別)に時間がかかり、京都では僅かな場所しか見学できなかった。

 そこで、旅行地を奈良・京都に変更し、京都連泊で実施することにしたが、より遠い広島に出かける学校には驚かされる。2泊で広島・京都は日程的に相当に厳しいようでもう行きたくないと話した方がいる。

 修学旅行を平和学習の一環として実施することにしたことが広島まで出かけた理由のようだが、現職の頃、平和学習(平和教育)といったことは話題にも上らなかった。したがって現職教育で取り上げられたこともない。

 平和を願う心を育てる、平和な社会の実現に貢献しようとする人間を育てる、戦争と平和について考えさせるといったことがねらいのようだが、学習指導要領に記載がない新たな教育活動を立ち上げることは控えるべきだろう。

 誰だって戦争より平和がいいが、戦争の悲惨さを知るだけでは戦争を防止することができない。戦争の悲惨さを知る人たちが世界中で戦争している現実を見れば明らかである。前の大戦を防げなかったのはなぜなのか、平和の実現のために考えなければならないことやるべきことは少なくない。付け焼き刃のような教育活動でできることではない。  (2019.3.24)

◇気持ちだけで十分である

 教職について初めての異動の時には同僚だけでなく、よく行った飲み屋さんやそこでしばしば一緒になった他校の先生など、たくさんの方から餞別をいただいた。私も餞別を贈ったのでそういう地域だったのかもしれない。

 2校目となった異動先は初任校から遠く離れた管外の学校だった。この学校にはそういう慣習はなく、異動者には職員の親睦会とPTAから餞別が贈られていた。以後赴任した学校は同じ市内だったのでどこも同じだった。

 20数年後に管内ではあったが他市へ異動になった。そこは今までと違って多くの職員が個人的な餞別を贈る学校だった。この学校で一緒になった職員は遠方からの異動者だったが、前任校では餞別をいただいた方が異動する時には餞別を届けるのが慣習になっているので、新聞発表をくまなくチェックしていると話した。新聞のお悔やみ欄に毎日目を通して不義理しないようにするのと同じである。

 異動が多い時には多額の出費で大変といった話を何度か耳にしたこともあり改善の必要性を感じていたところ、たまたま私一人が異動になる年度があった。そこで個人的な餞別はこの際止めてはどうかと職員の親睦会(青松会)に提案し検討してもらった。図書事務員や給食配膳員には異動がなく餞別を贈り続けている状況を考慮したようで、提案はすんなりと決まった。

 異動の時期には親睦会やPTAなどによる送別会が開かれるが、別れを惜しんでくれる皆さんの気持ちに異動者は感謝し満足しているだろう。気持ちだけで十分である。  (2019.3.6)

◇そういう気遣いは無用

 現職最後の頃は旅費が毎年のように削減され、また、旅費支給に細かな制約もあり、県外や泊を伴う遠隔地での研修にはほんの僅かの職員しか出張命令が出せない状況だった。教育研究会や先進地視察など、為になる出張は少なくない。経済が好転しなければ旅費の増額もないので景気回復が待たれるところだろう。

 泊を伴う遠隔地への出張では教職員にお土産を買って帰る慣習が残る学校がある。お土産を頂けばお気遣いをありがたく思うが、出張先から帰るだけでも大変なのでご苦労をおかけしたという気持ちにもなる。

 日々多忙な職員に些細なことであっても、職務以外のことで苦労をかけるのはよくないと思っていたので、個人的な旅行ならともかく、出張では土産を買わないよう「みやま会(職員の親睦会)」で検討してもらえないかと依頼した。

 重い荷物を持って帰った経験は誰にもあったようで、以後そういう気遣いは無用との申し合わせがされたのである。しかし、管理職については例外とした。管理職は職員のお陰でその職が務まるのであり、感謝の気持ちを忘れてはならない。   (2019.2.18)