みんなの心に輝く学校をめざして(7)-平成20年7月1日
◇日本語を大切に
最近は、日常生活の中にも各種文書の中にも外国語が氾濫しているように思います。私はとても違和感を感じており、できるだけ使わないようにしています。外国語を上手に消化してきた歴史もあり伝統もあった日本は、いったいどうなってしまったのかと感じています。
『モチベーション(=意欲)が高い』、『防災グッズ(=商品)』、『シビア(=厳しい)』、『お好きな物をチョイス(=選択)』、『CDも多数リリース(=発売)』、『ニーズ(=要望)』、『リーズナブル(=妥当)な値段』、『豊富なアイテム(=商品)』、等
挙げればきりがないくらいです。適当な日本語があるのに、外国語を使う必要はないように思いますが、これら外国語は世間一般で使われ度々耳にします。問題なのは、
『科学技術コンクール「チャレンジ・トゥ・ザ・リミット」(子ども科学館)』、『ヒューマンフェス タとちぎ○○○○(栃木県)』、『[サイエンス・パートナーシップ・プログラム事業]、 [スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール]、[スーパー・サイエンス・ハイスクール]、 [コミュニティ・スクール・キックオフ・フォーラム]、 [JSTバーチャル科学館](文科省)』、『[ライフステージ]、[スクーリング・サポート・ネットワーク整備事業]、[ジュニアボーカルレッスン](市教委、学校指導計画)』、『[ひとtoひとハートフルフェスタ]、[あしかがクリーンアップフェア○○○○(足利市)』、『学校演劇フェスタ(中文連)』、等
公的機関等が使っていることです。多くの日本人が理解できる言葉を使うべきでしょう。学のあるところを見せたいのか、格好がいいと感じているのか分かりませんが、行き過ぎています。納税者は誰かを考えてほしいものです。私たちには、日本の大切な文化である日本語を後世に残していく使命があります。したがって、西中学校からの文書では、この点を十分に留意しなければならないと考えています。
◇保護者を責めない
生徒指導のために保護者に学校へ来ていただくことがありますが、私は保護者を責めないようにしてきました。涙を流して嘆き悲しむ保護者を前にし、良い子にしようと一生懸命に育ててきた保護者を責めることなど到底できないことでした。逆の立場になって考えれば、同じく子供を育てる立場にあることを考えれば、とるべき対応は自ずと決まってくることでした。情をもって保護者を支えることのみだったのです。
大人だって過ちを犯します。私はこの年になっても時々母親に注意をされるくらいですから、子供は過ちを犯して当然、過ちを犯しながら大人になっていくものと考えています。したがって、保護者にも生徒にもこのことを踏まえてもらいながら、自らの行いで、保護者に迷惑をかけたことを生徒には厳しく責めましたが、保護者は責めないようにしてきました。
生徒指導を通して、その生徒をより成長させることができます。私たちも力をつけていくことができます。保護者には学校の味方、理解者になってもらうことができます。そう考えると、問題行動はむしろチャンス到来と喜ぶべきことではないかと思います。
みんなの心に輝く学校をめざして(8)-平成20年7月14日
◇朝会(6月3日<好き嫌い>)
皆さんは食物の好き嫌いがありますか。では人間の好き嫌いはどうでしょうか。
私は食物の好き嫌いはないのですが、人間の好き嫌いには激しいものがありました。教師になりたての頃でしたが、教師でありながら生徒が嫌いなのです。嫌いな生徒の多さに自分でもびっくりしたぐらいです。こんなことでは教師は続けられないと思いました。そして、自分のように人間を嫌って心を動かしているのは剣道精神に反すると感じたのです。
そこで、嫌いといった感情は表情に出さないように、絶対に相手に覚られないようにしました。すると不思議なことに、嫌いといった感情が消えてなくなり、いつの間にやら嫌いな生徒はいなくなってしまったのでした。皆さんもぜひ試してみてください。
※「以心伝心」、嫌えば嫌われます。好きと思う気持ちは、外に出してもまず問題は起きませんが、嫌いと思う気持ちを外に出すと問題が起きます。いじめに発展することもあります。感情の問題は理屈じゃないので難しいことですが、嫌いなんて気持ちは上手に解消してほしいと思っています。
◇道徳教育の見直し
道徳教育をもう50年もやっているのに、心の荒廃が叫ばれる状況になってしまいました。道徳は道得であるべきなのに生き方を学べてないようです。道徳の授業で何を学んだか覚えていないという現実(高校教諭の調査)を思うと、道徳のあり方を皆で真剣に考えていくことは、喫緊(きっきん)の課題です。戦前の教育を受けた人達の中には、修身で何を学んだかをいまだに語って聞かせる人がいるのに、中学を卒業して間もない高校生が、何を教わったのか分からないという現状を放置することはできません。
道徳の授業が、道徳的価値の追求に流され過ぎていることが問題と感じています。おいしい料理に使われた食材や調味料を解明し、それがどんなに大切かを確認してもおいしい料理の再現はできません。大切なのは調理(=生き方)です。我々は食材吟味のような道徳をやってきたのではないかと思います。
道徳の授業が好きで得意であると語る教師に、中学校で出会うことはほとんどありません。この逆ばかりです。調査をすれば明らかになると思いますが、教師が好きになれない、得意になれない、ということも問題と感じています。
道徳の時間は楽しみと教師も生徒も感じるようでなくてならないと思います。
◇子ども部屋について
外国では、子ども部屋の使用について決まりがあるとのことです。自覚と責任をもてるようになったら与えられますが、基本的には居間で過ごすのだそうです。部屋には、親が勝手に入っても問題にはならないし、中から鍵をかけるなんてことはさせないと聞きました。
日本における子ども部屋はその歴史と伝統がないせいか、子どもを下宿人にしてしまっている状況があるようです。子供部屋にテレビやデッキがあったり、電話は引いてないと思いますが、携帯電話を与え、家事も一切させないとなれば、下宿人そのものであると思います。家族の絆が弱まることはあっても、強まることはないでしょう。 (2024.12.7)