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本来の姿を取り戻す

「みんなの心に輝く学校をめざして」取り組んだ学校経営(足利市立中学校)、「生き生きとした学校生活のために」生徒指導主事として取り組んだ生徒指導で感じた課題の解消を念頭に置いて教育問題などを考えます。

校長室だより(7)

みんなの心に輝く学校をめざして(13)-平成20年10月1日

◇いじめについて
 いじめとは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と文科省は18年度に定義を改めました。それまでは、「自分より弱い者に対して、一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」でした。いじめは、重大な結果を引き起こす人権侵害です。いじめかいじめでないかの判断には難しいものがあるのですが、重要なのは、それを明確にすることではなく、いち早く発見し適切に対応していくことです。そのような対応を促すための変更だったのでしょう。
 いじめは発見しにくいと言われますが、その通りであると思います。したがって、いじめは身近なところに常にあると考え、いじめの兆候を敏感に察知する力を身につける必要があります。時には、「人間が二人いれば、そこにいじめはある。仲の良さそうな二人がいれば、それはどちらかが我慢しているだけだ」くらいに考えてもよいと思っています。
 いじめの四層構造は何度か耳にしたことがあるかと思いますが、いじめを考察すると、「被害者」、「加害者」、「観衆」、「傍観者」に区分される子どもがいます。観衆とは、いじめを見て楽しむ、あるいははやし立てたりする子のことで、いじめを奨励することになります。被害者にとっては直接手を下さないが、いじめの仲間と感じられます。傍観者とは、見て見ぬふり、あるいは何の感傷ももたない子のことで、暗黙の同意を与えることになります。被害者にとっては孤立感を覚え、精神的に追いつめられることになります。
 いじめをなくすには、加害者とともに観衆・傍観者をなくしていくことが大切です。6月23日、全校生徒を前に生徒会本部役員が演じた劇は、見ていて怖くなったという迫真の演技で、いじめを「しない、見過ごさない、許さない」との気持ちを強くもたせました。今後もいじめ防止にはこのような取り組みが必要です。生徒会の立派な活動に誇らしい気持ちを味わいました。

◇何もかもできない 
 新規採用の頃、「何て厳しい職に就いてしまったのか、もっと楽なところと思っていたのに」と後悔したことがあります。各種の校内外の研修会で話される内容や指導等は、すべてに完璧を求めているように感じました。とても自分にはできそうもないし、体がいくつあっても足りないとも思えました。やることの多さや厳しさに押しつぶされるような気持ちになりました。
 ある宴席で、教師は何もかもできて当然と私には受け取れるような会話がされていたように思います。意見を求められたのか、黙っていられなくなったのか、「何もかもできないということが分かんない程、馬鹿じゃない!」と喚(わめ)いてしまいました。すると、一人の先輩が生意気をたしなめるどころか見事な三重否定と肯定し、その後、この言動を他に紹介するほど評価してくれました。私は大いに救われた気持ちになりました。この先輩は中学校の校長を退職されましたが、多くの職員から尊敬され慕われています。
 先生方には、何もかもやろうとすれば、あるいは完璧を求めてしまうと精神的にもまいってしまいます。無理のない着実な教育活動をお願いしたいと思っています。


みんなの心に輝く学校をめざして14)-平成20年10月15日

◇優れた人材の育成には
 落語にこんな咄があるそうです。「何で勉強しなくちゃならないの?(息子)」、「決まってるじゃねえか、いい高校に入るためさ」、「何でいい高校に入らなくちゃならないの?」、「いい大学に入るためさ」、「何でいい大学に入らなくちゃならないの?」、「いい会社に入るためさ」、「何でいい会社に入らなくちゃならないの?」、「いい会社に入れば、いっぱい金がもらえるからさ」、「何でいっぱい金をもらう必要があるの?」、「いっぱい金がもらえれば、毎日寝て暮らせるじゃねえか」、「なら今から寝て暮らす(と寝てしまう)」というばかばかしい咄です。
  学力低下の問題が騒がれ、宿題や居残り学習の必要性、授業時数や内容の改善、といったことが取り沙汰されたことは記憶に新しいところです。今年3月、新学習指導要領が告示されましたが、最も重要な部分が抜けているように感じています。
 随分前の新聞記事に、東京のある私立学校が紹介されていました。この学校は、成績優秀な生徒が集まる学校のようでした。校長は、「愛国心のない者はどんなに勉強し優秀な成績を収めてもエリートにはなれない」と愛国心を育むよう生徒に求めていたのでした。
 また、自国の人達の役に立ちたいとの意志を語り、意欲的に学ぶ留学生の姿をお聞きしたことがありますが、日本の生徒にも同じような意志をもって欲しいと思っています。世のため人のためにとの意志をもって学ぶのと、そうでないのでは気力が違ってくると思うからです。
 「何のために学ぶのか」の問いに、「自分のために学ぶのだ」という答えを、何度耳にしたことでしょうか。自分の利益の追求のみ、それ以外は何もないのでは冒頭の落語と同じです。成長に合わせ、学ぶ目的に大義が加わるような働きかけはとても重要です。学力低下はもちろん、日本の将来を憂える声が巷に飛び交う今日の状況を考えれば、その重要性は益々大きくなっているように思います。

◇形は心を求め、心は形を進める
 最近は少ないのですが、「姿格好ではないよ、大切なのは心だよ」との言葉を何度も耳にしました。そういう考えは正しい面もありますが、それがすべてではありませんし、形を軽視する考えが社会に醸成されるのを見過ごすことはできないでしょう。
 葬式に真っ赤な服を着て行って、私には満々たる弔意がありますと言っても理解されることではないでしょう。結婚式に黒ネクタイで出席もできません。サンダル履きでは常識を疑われます。形の軽視は日本の文化を否定することになると考えています。茶道も華道もおよそ道がつくものは、すべて廃(すた)れることになるでしょう。
 剣道を志す人は、皆剣道形(かた)を稽古します。剣道形は、先人達の命を賭けた修行の中から生まれたものです。形の稽古をしながら何を学ぶかというと、その心を学んでいます。今は昔のように命のやりとりをすることはできません。
 ズボンを下げて尻が見えるように履いたり、服をはだけて着るような人を大勢見かけます。大切なのは心だよ、と言い切ることは難しいと思います。「襟を正す」との言葉が死語となるような国にはしたくないものです。  (2024.12.11)