みんなの心に輝く学校をめざして(27)-平成21年6月1日
◇日本でも国際感覚は磨ける
私は、平成17年、足利市の青少年国際交流、中学生訪米団としてスプリングフィールド市を訪問しました。訪問の目的は、国際感覚を磨いてくること、両市の友好親善を図ってくることでした。
国際化の時代であり、国際感覚を磨く必要性が語られますが、訪米を通して、国際感覚は、語学力だけでなく、日本人としての誇りや自信をもった日本人、信頼される日本人になることによって磨かれると強く感じました。
1922年(大正11年)、日本を訪れたアインシュタイン博士は、日本の文化や自然、国民性に触れ、日本を絶賛しました。「我々は神に感謝する。神が我々人類に日本という国をつくっておいてくれたことを」と述べたのだそうです。私が目にしたアメリカの人達は、道行く人の通行を妨げれば謝り、体が触れたりしたら謝り、歴史的建造物などの説明の時は、音を立てないよう静かに歩き、話を良く聞いていました。エレベーターに乗る時は、乗っていた人乗る人が互いにあいさつを交わしたりと礼儀正しく配慮がありました。日本人はもっと日本を見つめ、本来の姿を取り戻すべきであると思います。
◇美しい国旗なのに
スプリングフィールド市では、公共施設はもちろんレストランといった建物など、至る所で星条旗が掲げられていました。訪問した学校でも全教室に掲げられていました。テロがあった9月11日には、市内を走るほとんどの車が星条旗を掲げていたとのことでした。
私は、その光景に感動を覚え、「ベリービューティフル」と何人ものアメリカ人に声をかけました。ホームスティ先でも話題にしたところ、日本の国旗は「サンライズビュー(日の出の光景)」と誉められ、今度はこちらが「サンキュー」と手を伸ばしたのでした。今まで、国旗をそのように見たことはなかったのですが、そのように見ると、日本の国旗は何と美しい国旗なのか、そして、「サンセットビュー(日没の光景)」でもあると考えると、益々美しい国旗に思えました。
日本では、祝日にも国旗が掲げられないのが現状のようですが、さびしい思いがします。国旗を掲げるだけで人々の心が変わるものでもありませんが、少なくとも前の大戦が浮かんで違和感をもたれている方には、その思いを払拭(ふっしょく)してほしいと思います。平成11年に国旗・国歌法が制定されましたが、この美しい国旗に戦争責任はありません。
本校ALTのジャスティン先生が卒業された学校でも、教室に星条旗が掲げられていたのだそうですが、本校も是非そうしたいと思います。50年後100年後を考えれば決して無意味なことではないと思います。世界で尊敬され魅力を感じる日本人の育成のために。
◇学力向上
私が通った中学校は、複数の小学校から生徒が集まる学校でしたが、最も小さい学校から来た生徒に、成績優秀者が多いのに驚いた覚えがあります。同級生も優秀でしたし、上級生も下級生も優秀でした。当時は、テストの度に成績優秀者が廊下に張り出されました。どうしてなのかは分からなかったのですが、小さな学校なので、先生の手が行き届くのかもしれないと考えていました。
卒業生がそれぞれの進路先で、高い評価をいただけるようにしたいものです。そのために、まずは本年度、漢字コンテストに熱くなるような学校にしたいと考えています。
みんなの心に輝く学校をめざして(28)-平成21年7月1日
◇愛国心がなくては
国旗を掲げたり愛国心を養うことは戦争につながる、あるいは戦争賛美と捉える人がいるのでしょう。国旗や愛国心が悪者にされたり、愛国心を愛国心と言えず、国を愛する心と言わざるを得ない状況は誠に不思議です。国旗や愛国心を軽んずる人は、外国人に信頼され、国際舞台で活躍できる人にはなれないと思います。全教室に国旗を掲げるのは、決してあのような戦争への道を歩むことがないようにするためでもあります。戦争は、始めることよりも、思い止まることの方がはるかに勇気を必要とすることもあるでしょう。強い意志、信念、決断力、知力、そして、何よりも大切なのは愛国心であると思います。真の愛国心がなくては、戦争を思い止まることなどできないでしょう。
<以下は、あの戦争や愛国心への私の思いです。>
戦争はやってはいけない、戦争はしたくないとの思いは、前の大戦の時代に生きた人達も同じだったと思いますが、戦争を止められなかったのです。どうしたら止めることができるのかを考えていくことはとても大切です。
軍を統御できない憲法の不備の悪用、天皇の軍隊であるのに天皇の意志に背き、軍あって国家なしの状況をつくり出した人達、国の進路を戦争へと舵を切った人達に愛国心があったのかと疑念をもっています。権益や経済の窮状打開といった国益、国威発揚、国家主義、国粋主義、軍国主義、いろんな思いが社会に充満していたとしても、自衛のためであったとしても、国民にはものを言わせない、そして、大本営発表のように国民を欺(あざむ)いたのです。
国民の生命や平穏な生活、社会の安寧(あんねい)を願う心が愛国心の本質であると思います。この観念に乏しい人達は愛国者ではないし、愛国心があったと言うなら、歪んだ愛国心と呼ぶべきではないのかと感じています。現代の物差しで当時を見るなと言われればそうなのかもかもしれませんが。
三国干渉にあって遼東半島を返した明治政府のような自制心はどうしたのか。「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」との孫子の言をどう受け止めていたのか。敵の実力も日本の実力も、何も考えずに破滅への道を突き進んでしまったのがあの戦争だったと考えています。
※薦められて読んだのですが、とても参考になったので紹介します。
「落日燃ゆ」(城山三郎著、新潮文庫)、「大東亜戦争の実相」(瀬島龍三著、PHP文庫)、「私の中の日本軍(上・下)」(山本七平著、文春文庫)
愛国心のない校長は退職すべきであると私は何度も発言していますが、教育の荒廃が叫ばれる今日の状況は、かなりの気概がないと改善できないと考えているからです。明治の頃の教師について書かれた本には、次代を担う人間を育てる熱情や愛国心が感じられました。「元来た道をまた歩む」ことのないように、また、学校教育上の諸問題を早急にねばり強く解決していくために、教師にも愛国心が必要です。身の危険があるわけでもないのに、変だと感じても意見を述べられず、改革もできないのなら、前の大戦から何も学んでいないと言わざるを得ません。 (2024.12.27)