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本来の姿を取り戻す

「みんなの心に輝く学校をめざして」取り組んだ学校経営、「生き生きとした学校生活のために」取り組んだ生徒指導で感じた課題の解消を念頭に置いて教育問題などを考えます。

◇慰霊碑は誤解しか生まない

 原爆死没者慰霊碑の碑文は広島大学の雑賀忠義教授が撰文揮毫したとのことだが、修正するか撤去すべきだろう。インドのパール判事に碑文を批判されると、雑賀は「広島市民であるとともに世界市民である我々が過ちは繰り返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり、良心の叫びである。原爆投下は広島市民の過ちではないとは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい…云々」と反論した。

 碑文を普通に読めば過ちを繰り返さないと誓うのは日本人であり、日本が過ちを犯したので原爆が落とされた、だから仕方がないという理解になるだろう。長いことそう考えていたが、日本人ではなく広島市民と知った時は怒りさえ覚えた。

 家族や親戚、友人などの死没者慰霊は、生き延びたとはいえ原爆症などで苦しむ市民が自分たちの過ちでこんなことになったと詫びている姿であり、善良な市民に対してあまりにも酷い仕打ちではないか。

 碑文は1952年7月22日に決定したとのことだが、今ならパブリックコメントなどで民意を探ることができる。当時の広島はどうだったのだろう。反対はなかったのか。

 広島市は碑文の主語を「全世界の人々」であると説明しているが、説明版では「すべての人々」となっている。「すべての人々」は日本国民であって、広島市民とか全世界の人々と考える人などほとんどいないだろう。

 雑賀が碑文の主語は広島市民と言っているのに、広島市がそのことを公言しないのは原爆の犠牲者は人類全体の平和の礎となって祀られており、その原爆の犠牲者に対して、反核の平和を誓うのは全世界の人々でなくてはならないと変更しているので都合が悪いからだろう。広島市の平和の礎として祀れば反核の平和を誓うのは広島市民であり、日本の礎として祀れば日本国民になる。どのように祀ったかによってどうにでもなるような理屈に納得する人がいるのだろうか。

 碑文にある「過ち」を「人類全体が犯した戦争や核兵器使用など」と広島市は説明しているが、「人類全体が犯した戦争」とはどのような戦争なのか、人類全体が犯した戦争など聞いたことがない。また、「核兵器使用など」の「など」にはどんな過ちがあるのだろうか。分からなければ過ちを繰り返さないと誓うことはできないだろう。

 戦後生まれの日本人には原爆死没者に詫びるような過ちは一切ない。慰霊碑をそのままにすることは、未来永劫悪いのは日本ということを代々引き継がせるようなもので、原爆死没者を自業自得の存在にしてしまうことにもなりかねない。「過ちは繰り返しませぬから」という言葉はあまりにも罪深い。  (2022.8.25)