足利学校釋奠(せきてん=孔子とその門人をまつる儀式)にて、記念講演(平成16年11月23日)をされた前二松学舎学長の石川忠久先生は、足利学校がある足利市の生徒に論語を教えるべきであると話された。生涯学習における「まちづくり人づくり」と題して講演(平成17年2月17日、市民プラザ)をされた香川正弘上智大学教授も同様の話をされた。そして今、市内の小学4年生、中学1年生が毎年足利学校で論語の素読を行うようになった。
小学校の創立100周年記念式典(平成16年10月30日、大月小学校)で、式場内に展示された「修身」の教科書をたくさん目にした。目を通すと今でも色あせない美しい話が載せられていた。青少年を戦争に駆り立てたと思える内容も一部あったが、埋もれさせてしまうにはもったいない教科書と感じた。
鎌倉時代に書かれた十訓抄(じっきんしょう=年端もいかない子どもに、人の生き方を教えるとの意図で、教訓となる説話が載せられている)を読んだ。国語力がなくて意味がよく分からなかったが、その意図は十分に感じることができた。明治の学生の二大図書と言われた西国立志編(もう一つは、「学問のすすめ」)を読んだ。この本は、明治の学生をどれほど勇躍させたことだろう。
現在使用している道徳の教科書(副読本)は、24の指導内容にある「強い意志」、「人間愛」、「思いやり」、「向上心」、「公徳心」といった道徳的価値の追求のために書かれた作り話のような印象をぬぐえない。高校生になって、中学の道徳で何を教わったか分からないと答えざるを得ないのはこんな所にあると考えている。本県の場合は、道徳の授業にまじめに取り組んでいる方が多いと思う。なのに栃木の高校生がそのように答えている。
道徳の時間に話し合い、いろいろな見方考え方を知ることは大切かもしれないが、孔子は、学んで思索しないと道理が分からないが、思索しても学ばないのは危険であり、学んで思索しないことよりも悪いと言っている。(子曰(いわ)く、学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。) (2012.3.15)