昨年に比べれば平和宣言も平和の誓いも改善されたが、納得できるものではない。
平和の誓いでは、〔戦後日本は再び戦争はしない、……今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。〕を除けば申し分なかった。
平和宣言では、[…原子爆弾の凄まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の反省の中から生まれ、…]と市長は述べたが、生き残った被爆者は国の援護もないまま12年間も放置されたと被爆者代表が述べているくらいなので、被爆者の思いが憲法に生かされたとは思えない。いったい日本人の誰が中心になって草案を練ったと考えているのだろう。
[東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます。]と、今年も福島に言及しましたが、いったい長崎はどんな貢献をしているのだろう。口先だけのことなら口にしない方がいい。福島に言及するのは、原子爆弾と原子力発電は同じと捉えているからだろう。
[現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。]と述べているが、こういう主張は、式典と関係のないところですべきである。
安保法案に賛成するのは、絶対に戦争をしない、戦争はしたくないからで、子や孫が広島や長崎のように、あるいは、チベットや内モンゴル、ウイグル自治区のようにならないためでもある。
被爆者は政治的主張を盛り込むことに賛成だったのだろうか。総理を前にしての政府批判に拍手したのだろうか。会場の外での抗議行動やヤジを望んでいたのだろうか。長崎市は式場内外の行動に自粛要請もせず黙認したのだろうか。
政治的主張を盛り込むなど、あのような非礼な式典を行っていたら、やがて止めてしまえとの声も出てくるだろう。そして、被爆者などもうどうでもいいと思うような人が出てくるかもしれない。亡くなられた方々の御霊を冒涜し、被爆者を更に傷つけるような式典は見たくない。止めた方がいいとの声が出て当然である。
長崎市長は長崎市民から選ばれた人間で全国民から選ばれたわけではないが、全国に放映され世界にも発信されることを考えたら、国民を代表しているとの自覚や配慮が必要だろう。 (2015.8.13)