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本来の姿を取り戻す

「みんなの心に輝く学校をめざして」取り組んだ学校経営、「生き生きとした学校生活のために」取り組んだ生徒指導で感じた課題の解消を念頭に置いて教育問題などを考えます。

◇広島平和宣言(1)…原子力発電は人類と共存できないのか

 昨年(2012年8月6日)、次のようなメールを広島市に送った。

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 本日の平和宣言には疑問を感じました。途中まではとても良かったのですが、終末部分で、我が国のエネルギー政策に言及したことです。

 「核兵器と人類は共存できない」ということなら、そうあってほしいし、そう考える人は大勢いることでしょう。本日の宣言は、原子力発電が人類と共存できないと言っているようなものです。脱原発は、国民の総意ではありません。電力会社の社員や家族、親戚、研究者、企業など、声を上げにくい人達、声を上げない多くの国民は、声高に反対を叫ぶ人たちと同じ気持ちではありません。

 国のエネルギー政策を平和宣言に盛り込み、世界に発信することは、原爆を投下された広島の市長だからできたことですが、逸脱しているように思います。

 いつ、どこで、どのように行われたのか、ほとんどの国民が知らない国民会議、国民の意見が分かれるような脱原発のエネルギー政策、といった内容を盛り込まない平和宣言にしたなら、その重み、意義を失うことはないでしょう。

 広島市長による平和宣言は、日本だけでなく世界からも注目されます。人々の心を突き動かし、二度と核兵器が使われることのない世界(平和)への決意を抱かせるような宣言であってほしいと思います。

 平和学習の意図の下、多くの学校が広島市を訪れます。戦争の悲惨さを知るだけでは戦争を防止することができません。戦争の悲惨さを知る人たちが、世界中で戦争している現実を見れば明らかです。国家国民のために身を賭して言うべきことを言い、行動する人間を育てることが大事なのです。前の大戦を防げなかったのはなぜなのか、を含めての学習でなければ平和学習ではありません。

 どこの世界でも見えている人、分かっている人はいるものです。これではいけないと、言うべきことを言うべき立場の人が言い、聞くべきことを聞くべき立場の人が聞き、身を賭して(愛国心をもって)事に当たっていたなら、それでも福島の事故は起きたのでしょうか。

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 原発事故は、当初から人災の声があった。それも素人ではなく、専門家がそう言っていたのである。危険性が指摘され、対策を講じるべきなのにやらなかったということだろう。

 平和宣言では、被災地の復興や被災者への思いも述べていた。私たちの心は皆さんと共にある(2012年)、被災地の皆さんを応援する(2011年)と述べていたので、当然、広島市がれき処理に協力していると思っていたが、そうではないらしく、がっかりさせられた。

 

    平和宣言(2012年)

  1945年8月6日8時15分、私たちの故郷は、一発の原子爆弾により灰じんに帰しました。帰る家や慣れ親しんだ暮らし、大切に守ってきた文化までもが失われてしまいました。――「広島が無くなっていた。何もかも無くなっていた。道も無い。辺り一面焼け野原。悲しいことに一目で遠くまで見える。市電の線路であろう道に焼け落ちた電線を目安に歩いた。市電の道は熱かった。人々の死があちこちにあった。」――それは、当時20歳の女性が見た街であり、被爆者の誰もが目の当たりにした広島の姿です。川辺からは、賑やかな祭り、ボート遊び、魚釣りや貝掘り、手長えびを捕る子どもたちの姿も消えてしまいました。

  そして原爆は、かけがえのない人の命を簡単に破壊してしまいました。――「警防団の人と一緒にトラックで遺体の収容作業に出る。少年の私は、足首を持つように言われ、つかむが、ズルッと皮がむけて握れない。覚悟を決めて指先に力を入れると、滴が垂れた。臭い。骨が握れた。いちにのさんでトラックに積んだ。」――この当時13歳の少年の体験のように、辺り一面は、無数の屍が重なり、声にならない呻き声の中、息のない母親のお乳を吸い続ける幼児、死んだ赤子を抱き締め虚ろな顔の母親など、正に生き地獄だったのです。

  当時16歳の少女は、大切な家族を次々と亡くしました。――「7歳だった弟は、被爆直後に全身火傷で亡くなり、ひと月後には、父と母、そして13歳の弟と11歳の妹が亡くなりました。唯一生き残った当時3歳の弟も、その後、癌で亡くなりました。」――広島では、幼子からお年寄りまで、その年の暮れまでに14万人もの尊い命が失われました。

  深い闇に突き落とされたヒロシマ被爆者は、そのヒロシマで原爆を身を以て体験し、後障害や偏見に苦しみながらも生き抜いてきました。そして、自らの体験を語り、怒りや憎しみを乗り越え、核兵器の非人道性を訴え、核兵器廃絶に尽力してきました。私たちは、その辛さ、悲しさ、苦しみと共に、その切なる願いを世界に伝えたいのです。

  広島市はこの夏、平均年齢が78歳を超えた被爆者の体験と願いを受け継ぎ、語り伝えたいという人々の思いに応え、伝承者養成事業を開始しました。被爆の実相を風化させず、国内外のより多くの人々と核兵器廃絶に向けた思いを共有していくためです。

  世界中の皆さん、とりわけ核兵器保有する国の為政者の皆さん、被爆地で平和について考えるため、是非とも広島を訪れてください。

  平和市長会議は今年、設立30周年を迎えました。2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟都市は5,300を超え、約10億人の市民を擁する会議へと成長しています。その平和市長会議の総会を来年8月に広島で開催します。核兵器禁止条約の締結、さらには核兵器廃絶の実現を願う圧倒的多数の市民の声が発信されることになります。そして、再来年の春には、我が国を始め10の非核兵器国による「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合も開催されます。核兵器廃絶の願いや決意は、必ずや、広島を起点として全世界に広がり、世界恒久平和に結実するものと信じています。

  2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曾有の大惨事が発生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。

  あの忌まわしい事故を教訓とし、我が国のエネルギー政策について、「核と人類は共存できない」という訴えのほか様々な声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。また、唯一の被爆国としてヒロシマナガサキと思いを共有し、さらに、私たちの住む北東アジアに不安定な情勢が見られることをしっかり認識した上で、核兵器廃絶に向けリーダーシップを一層発揮してください。そして、原爆により今なお苦しんでいる国内外の被爆者への温かい支援策を充実させるとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断をしてください。

  私たちは、今改めて、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、この広島を拠点にして、被爆者の体験と願いを世界に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。

  平成24年(2012年)8月6日 広島市長 松井一實

 (2013.6.25)